日本航空の闇と光――20世紀後半飛躍の企業史
1945年10月、国内にある飛行可能な機体はすべて松戸飛行場に集められ、米軍の中尉の無情な指示により、戦闘機のみならず旅客機までもが一機残らず燃やされた。戦前には世界最高水準にあった日本の航空技術の結晶はGHQによって跡形もなく葬られた。
1950年に運行禁止が解除されると翌年8月、日本航空株式会社が設立された。このとき、日本航空の他に4社が国内航空運送事業免許の申請をしていたが、最終的には日本航空に一本化された。
半官半民体制で始動した創設期社員の多くは復員軍人や学徒出陣兵で構成されていた。そこに英語の達者な日系2世らが加わって、ようやく運営が成り立つという奇抜な集団であった。
1951年10月25日、米軍管理下の羽田-伊丹-板付(福岡)の各空港間で定期旅客運行が始まった。国際線は、1953年に日本の航空会社として初となる運航が羽田ーホノルルーサンフランシスコ間で開始されたのを皮切りに、翌年には、当時アメリカなど連合国の占領下にあった羽田ー那覇を結ぶ沖縄線も運航開始。同年、待望の日本人機長が誕生した。
その後も世界の主要都市への定期便を増やし、1970年に東証一部上場を果たした。1980年代に入ると、好景気、円高によって航空運賃が下がったことで旅客が飛躍的に増加。1983年には、国際航空運送協会(IATA)の統計で旅客・貨物輸送実績が世界一となり、それから5年間世界一の座を維持し続けた。しかし、この間もすべてが順風満帆だったわけではない。日本航空123便が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落する航空事故史上最悪の悲劇が発生し、甚大な補償経費を支払うこととなった。
必然の経営破綻と革新――裏側にはびこった官僚体質を払拭
2000年代に入ると、日本エアシステム(JAS)、日本アジア航空を次々と合併。国際線の増便や同業他社に比べて高い給与などで拡大を図るも、これが裏目に出る。極めて無謀な経営体制と原油高、燃油サーチャージの導入、新型ウイルスの流行など外部環境により、2010年に会社更生法を申請し、事実上の経営破綻となった。上場は廃止され、社長・取締役ら経営陣は即日で全員辞任。他にも多くの社員を解雇するなど、多大な犠牲を強いることとなった。
1970年代以降の人事方針は、新卒入社のうち約25名の東京大学卒中心の人員を早期に将来の幹部候補として選定し、ほとんど現場の経験をさせることもなく意思決定権を与える学歴エリート主義が蔓延していた。
自社で技術やテクノロジーを革新するリソースはほとんど持たず、技術面は専らボーイングなど外部の航空機メンバーに依存することで、創造する力を明らかに欠いていた。そうした状況にもかかわらず、社員には高給を支払い続け、無駄な交際費は止まらず、現場知らずの幹部によるほとんど机上の采配とも言える経営がなされていたのだ。
そんな冬の時代を、京セラ創業者の稲盛和夫氏を会長として招聘したことや企業再生支援機構のスポンサー化によって乗り越えると、2012年には再び東証一部上場を果たすなど文字通りのV字回復を果たす。
この時期、稲盛氏は残った社員に何度も「当事者意識」を求めた。責任体制の曖昧な旧来の企業風土を徹底的に更生するべく、「部門別採算制度(京セラ時代にも稲盛氏が採用)」と「JALフィロソフィ(各々が会社を良くしようという当事者意識)」の2つを強調。
とりわけ、外部に依存していた技術面についての業務改革は著しい。外部から納品される機体のモニタリングや改修など整備はもちろん、IoTやVRなどを積極的に開発・試用するなどイノベーションを図る体質が早くも浸透している。
羽田空港で全スタッフの所持するトランシーバーの所在を確認するシステムで実証実験を行ったり、眼鏡型・腕時計型端末など評価の定まらない新技術も積極的に試用したりするなど、技術面を筆頭に失敗を恐れない企業風土へと生まれ変わった。
また、2016年には米マイクロソフトが開発するゴーグル型AR(現実拡張)端末の「ホロレンズ」を世界の航空会社として初めて導入。何もない空間にコックピットや航空エンジンを再現するなどパイロットと整備士の自社学習を促すことで話題を呼んだが、試験導入に向けた開発会議では若手の開発担当者を抜擢するなど、成長環境を構築している。
後編に続く(12月12日公開予定)
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