試験管の中で培養するより、畑で育てる作業が好きだった

――宮﨑さんのご実家はリンゴの兼業農家だそうですが、大学や大学院時代にはイチゴの研究をされたそうですね。
僕が在籍していた信州大学では、各教授が用意したテーマに応募するかたちで研究室に入ります。リンゴのDNAなどの基礎研究もあったのですが、単純に自分は試験管の中で培養するより畑で育てることに興味があり、それができたのがたまたまイチゴだったんです。
研究室では、イチゴの新品種の栽培マニュアルを作成したり、肥料や水の量、摘果(花摘み)の方法を他の品種と比較試験をしながらビニールハウスの中で栽培したりしました。また、真夏でも収穫できる「サマープリンセス」という珍しい桃色のイチゴを、もっと赤く甘くするといった品種改良の研究も行いました。
――研究室だけでなく、実際に農園で研究をされたんですね。
はい。県内の複数のイチゴ農園に通って、現場で聞き出した困りごとや栽培状態を見て把握した問題を大学で研究して解決策を提供するといった活動もあり、本当に楽しかったです。
一方で、植物という生き物を扱う大変さも強く感じました。拘束時間が長く、今までの人生で研究室時代が一番きつかったですね。毎日世話をするので土日も休みがなく、夏は暑くなる前の早朝に作業をして、昼間は実験室で実験、そして夕方にまた作業。僕はほとんど就活をやりませんでしたが、周りの学生は就活の時間確保に苦しんでいました。
――大学院卒業後のご自身のキャリアについては、どう考えていましたか?
一番やりたかったのはイチゴ農家だったんです。でも、初期費用が約5,000万円必要で……。しかも、平均的な売上から逆算して投資資金の回収に10年かかるというリスクもあったため、諦めざるを得ませんでした。
ただ、地方を活性化させる地域おこし協力隊にも興味があり、そこから派生して社会貢献を考えていった際に 青年海外協力隊の制度を知り引かれていきました。若いときにありがちな成長意欲に取りつかれていて(笑)、厳しい環境に身を置けば得るものが大きいだろうと思ったんです。
青年海外協力隊の農業系の募集には大きな省庁でのマネジメントや研究もあったのですが、僕は農家のおじさんと一緒に農作業をするような現場の仕事が第一希望だったこともあり、結局パナマで野菜作りを教える仕事に決まりました。
信頼を勝ち得たのはキャベツの栽培技術

――JICA(独立行政法人国際協力機構)が派遣する青年海外協力隊は、途上国の課題解決をサポートするものですが、そこでも農作業にこだわったんですね。
好きだから楽しかったのですが、今振り返るとすごく大変でした。パナマはスペイン語圏なので、事前に訓練はしたものの、最初の半年は言葉の壁に悩みました。勤務先の所長に「スペイン語がしゃべれないなら、日本に帰れ」と言われたこともあります。
でも、そのときキャベツの比較栽培試験を自分でやっていて、どの栽培方法が効率的か結果を見せたらちょっと認めてもらえました。スペイン語ができなかった分、目で見て分かる栽培技術で信頼を勝ち得たというのはありますね。
――実際にパナマと日本の農業にはどんな違いがあったのでしょうか。
大企業の農業は日本と同レベルですが、地域格差は日本以上に大きいです。僕がいた村では焼き畑農業で作るコメやトウモロコシ、イモが基本で、土を耕して作物を育てる概念がない。
ただ、持続性の面で問題視されがちな焼き畑農業も適切な耕作と休耕期間を取れば循環型の農業なので、すべてを否定せず、「子どもたちが栄養不足にならないように野菜も育ててみようよ」と常畑(じょうばた)の取り組みもアドバイスしました。
自分なりにやりきった感はあったんですが、任期満了後の村の様子が気になって自費で一度戻ったら、プロジェクトとして関わった畑は荒れ地になっていました。正直、ショックでしたね。
現地の農業の意識を変えられなかったことを痛感し、彼らが継続しやすい技術を重点的に教えるなど、考慮すべきだったと思いました。それでも庭先で野菜を育てるという習慣は少し残っていて、受け入れられたものもあったことはうれしかったです。
ブログ発信をしていたら「頼まれごと」が仕事になった

――協力隊での経験が、現在のコンサル業につながったのでしょうか?
大学時代からブログ発信をしており、青年海外協力隊の活動中も発信を続けていました。すると、パナマから帰国する半年ほど前から、僕のブログ経由で「アドバイスが欲しい」という依頼がポツポツと舞い込むようになって。最初の依頼は、ベトナムの経営不振のイチゴ農園のサポートと、日本企業がケニアに進出するJICA関連の農業プロジェクトの協力という2件でした。
これは仕事になりそうだなと感じて(笑)、自発的にというより、人の頼みごとを聞いて始めたのがスタート地点といえますね。
ブログ自体は大学3年生のときから、全国の農学部生向けのイベント開催のための広報活動としてやっていました。他の大学生との交流ツールがブログのコメント欄だけという時代だったので、思ったほどは人が集まらなかったものの、近県の大学の他、東京や岡山などから来た学生といろいろな話ができました。
そのときにブログの影響力ってすごいと思って。その後は個人ブログも作り、パナマでも農業情報や自分の経験を発信し続けていました。
――その発信力と実績が、コンサル業に結実したわけですね。
とはいえ帰国後は普通に就職しようと旅行関連企業を1社受けたんですけど、書類審査で落ちてしまって。結局、依頼が続いた農業コンサルを続けました。不安もなくはなかったのですが、何も分からないからこそ強気で続けられたんだと思います。もし今あの頃に戻ったら、一度就職して会社の仕組みや経営ノウハウを学ぶかもしれません(笑)。
現在は国内外のクライアントと顧問契約を結んで、「基本的にリモート、時々出張で現地」というパターンが多いですが、完全にリモートの仕事もありますね。
やりたいことより「人の役に立つ」が仕事の価値

――多様な農業形態に関わる中で、宮﨑さんの価値観に変化はありましたか?
コンサル業を通して、自分の農園を持つより、多くの農園にアドバイスをしたほうが社会に与えるインパクトは大きいと気づきました。
ただ、今後はコンサル業って淘汰されていくと思っていて。たとえば、現在は日本中のイチゴ農園でAIによる自動化が進んでいます。ビニールハウスの開閉から暖房機の起動などをプログラミングしておき、センサーで温度や二酸化炭素濃度を感知して管理できるようになりつつあるんです。農家の労働時間の多くを占めるイチゴの収穫とパッキングも、自動化の研究が進行中の分野です。
僕が農園に届けているような知識が全部データ化されれば、1クリックでパソコンにダウンロードしたイチゴ栽培プログラムが、勝手にイチゴを育ててくれるようなことが起きるはず。最終的に農業コンサルを求める企業がゼロになったときに自分の価値をどこに見いだすかは、考え続ける必要があります。
それでも組織の意思決定のサポートに、僕のような外部の専門家の意見が必要なシーンは出てくるはずです。それはもう農作業の領域ではないのですが、そもそも人の頼みごとが仕事になったように、やはり 人の役に立つことが一番重要なので、需要がない仕事には価値がないくらいに最近は思います。
――イチゴ農家になりたいとの思いからスタートしたキャリアから、視座が変わってきたことが興味深いですね。今後の事業展開には、どんなビジョンをお持ちですか?
今の主軸はリモートのコンサル業なので、約10倍まで規模を拡大できます。でもそうすると、いずれはキャパ的に頭打ちになるので、スケールアップとしてコンサルとは別に家庭菜園関連の事業を新たに始めたいです。
最初のステップとして家庭菜園に特化したウェブメディアとYouTubeで、家庭菜園を始めたい人の悩みを解決していく。そこでうまくいけば、オリジナル商品の開発などの方向にもいけるかなと。
僕個人のYouTubeチャンネルは、「イチゴ特化」から始まって今は「家庭菜園」がテーマになり、登録者は1万人を超えました。おかげでこの業界の需要に気づけましたし、去年から日本に住むようになってテレビ出演の依頼にも応じられるようになりました。認知度が上がれば、昔は難しかったイベントの集客もリベンジできるかもしれません(笑)。
――最後に、理系就活生のキャリアについてアドバイスをお願いします。
僕が大企業や大学教授の肩書きがなくても世界で仕事ができるのは、やっぱり修士卒だからだと思います。海外に行ったら大学名ではなく、「学部卒なのか」それとも「修士またはドクターなのか」ということを見られます。もし 専門家として海外で働くなら最低でもその分野の修士を取る必要があるでしょう。
あとは、仕事では自分でなく顧客のやりたいこと、需要があるほうを優先したほうがいい。もちろん、それに加えて専門分野との関連性や、人との相性も大事です。僕はイチゴからスタートしましたが、メロンやトマト、植物工場でのライトを使った栽培といった相談も引き受けて、 仕事の幅が広がった。
自分の専門分野にある程度の自負はあっても、相手の声に寄り添うことで、思いがけない良い結果が生じることもありますよ。
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編集後記
仕事の幅やスケールの拡大に伴い、農業と向き合う宮﨑さんの視座は高まっているが、その起点は「現場の農作業が好き」というブレない想いだった。農業の重要性が高まり続ける世界で、好きを起爆剤に、知識と経験を武器に、研究者のキャリアが農業という産業だけでなく人の暮らしや社会構造を大きく変える可能性を、宮﨑さんは体現しているように感じられた。